中国の野人「イエレン」——国家が110人で探した神農架の獣人:1977年の科学院調査、クマの足跡の重なり、「5パーセント」まで下がった隊長の確信を徹底検証
中国湖北省の神農架には、赤茶色の毛で二本足で歩く「野人(イエレン)」の目撃が400件以上ある。1977年、中国科学院は約110人の調査隊を森に送ったが、標本は見つからず、調査を率いた人類学者はのちに実在の可能性を5パーセントと見積もった。古典に残る「毛民」から1976年の幹部6人の目撃、毛と足跡の分析までをたどる。さらに2024年のギガントピテクス絶滅研究、キンシコウ説、「毛深い西洋人」説を比べ、野人の正体を考える。
日本語翻訳
はじめに——国家が110人で探した「野人」
ヒマラヤにはイエティ、北米にはビッグフット、日本にはヒバゴンがいる。中国でこれに当たるのが野人(イエレン、yeren)だ。赤茶色の毛に覆われ、二本足で歩き、背丈は人より高い。そんな姿で語られてきた。
ほかの獣人UMAとはっきり違う点がひとつある。国の研究機関が正式な調査隊を出したことだ。1977年、中国科学院は湖北省北西部の神農架(しんのうか)の森へ、科学者や兵士など約110人を送り込んだ。ネス湖やヒマラヤの調査は、ほとんどが民間の探検家やテレビ局によるものだ。国家がこれほどの規模で「未確認生物」を探した例はほとんどない。
それでも、半世紀たった今も標本は1体も見つかっていない。調査を率いた人類学者は、のちに野人の実在を「5パーセント」と見積もるまで考えを変えた。
この記事では、古典の記録、1970年代の目撃と調査、毛と足跡の分析を順に確かめる。そのうえで、正体をめぐる3つの説を比べる。

第1章 2000年以上前からいた「毛の生えた人」
中国の文献には、毛深い人のような存在がたびたび出てくる。主なものを年代順に並べた。
| 時代 | 文献 | 記述 |
|---|---|---|
| 前4〜前3世紀 | 屈原『九歌』山鬼 | 山の奥にいる、つる草をまとった人のようなもの |
| 前4〜前1世紀 | 『山海経』 | 遠い土地に住む「毛民」 |
| 前3世紀ごろ | 辞書『爾雅』 | 「狒狒(ひひ)」は人に似て、髪が長く、速く走り、人を食う |
| 853年 | 段成式『酉陽雑俎』 | 狒狒の血を飲むと幽霊が見える。かかとが後ろ向き |
| 1555年 | 地方誌『房県志』 | 神農架の北の房県に「野人」が初めて登場 |
| 清代 | 同上 | 山の洞窟に群れで住み、鶏や犬を食べる |
ここで注目したいのは、古い記述ほど「獣」より「人」に近いことだ。オランダの外交官で東洋学者のロバート・ファン・フーリックは、狒狒や猩猩(しょうじょう)の最も古い絵について「人の特徴のほうが猿の特徴より勝っている」と書いている。現代の中国の学者は狒狒をヒヒ、猩猩をオランウータンと訳すことが多い。だが、もとの文献はそれほど単純に動物とは言っていない。この点は、第5章で取り上げる3つめの説につながる。
第2章 1976年、会議帰りの車の前に
野人の話が全国に広がったきっかけは、1976年の目撃である。
報告によると、神農架林区の幹部6人が会議から車で戻る途中、道に現れた毛深い生き物をあやうくはねそうになった。日付は5月14日とする資料が多いが、人数を5人とする資料もあり、細部はそろっていない。地元の役人が何人もそろって見たという話は重く受け止められ、翌年の大規模な調査につながった。
この前後には、ほかにも目撃が続いた。
1984年の時点で目撃は約300件、2018年には400件を超えたと報じられている。
第3章 1977年の調査隊——大きすぎた110人
1977年、中国科学院が調査費を出し、神農架へ調査隊を送った。共同で率いたのは、北京自然博物館の人類学者周国興(しゅう・こくこう)氏である。軍の兵士、動物学者、生物学者、写真家などが加わり、総勢は約110人にのぼった。
隊は目撃者の話を聞き、足跡の石こう型や毛、ふんを集めた。だが、野人そのものは見つからなかった。
のちにこの調査は「人数が多すぎた」と批判される。110人が森を歩き回れば、野生動物は逃げてしまう。仮に野人がいたとしても、近づけるはずがなかった、というわけだ。
時期にも意味がある。1977年は文化大革命が終わった翌年だ。歴史学者シグリッド・シュマルツァーは著書『The People's Peking Man』で、毛沢東時代の中国が「労働が人間をつくった」というエンゲルスの考えを、北京原人を使って広く教えていたことを描いている。人と猿のあいだにいる野人は、こうした人類の進化を語る物語にぴったり当てはまる存在だった。
1981年には、古人類学者の賈蘭坡(か・らんぱ)氏の後押しで「中国野人考察研究会」が発足した。死体には5,000元、生きたままなら倍の1万元の懸賞金がかけられた。
第4章 毛と足跡は何を語ったか
毛
1980年代には、武漢の法医学の研究グループが「野人の毛は未知の高等霊長類のものかもしれない」と発表した。これは大きく報じられた。
しかし、その後の結論は違う。集められた毛やふんは、調べ直すとクマ、パンダ、マカク(ニホンザルの仲間)、イノシシなど既知の動物のものだった。周氏はのちに「本物の野人の毛は、今まで1本も集まっていない」と書いている。人の髪を染めたものもあったという。
足跡
周氏は野人のものとされる足跡を数百個調べた。その多くはクマの足跡が重なったものだった。クマは歩くとき、後ろ足を前足のすぐ後ろ、またはほぼ同じ場所に下ろす。すると前足と後ろ足の跡が重なり、大きな1つの足跡に見える。しかも左右交互に並ぶので、二本足で歩いた跡のように見えてしまう。北米のビッグフットの足跡にも同じ説明が当てはまる。
さらに周氏は、1977年に作られた石こう型の一部が、現場で見た足跡とは形も大きさも違っていたと認めている。型を作る作業の途中で、手が加わってしまったのだ。証拠を集めた調査隊自身が、証拠の信頼性を下げてしまったことになる。
研究者の見積もりの変化
| 時期 | 研究者 | 「未知の大型霊長類」である確率 |
|---|---|---|
| 1980年代 | R・グリーンウェル(未確認動物学者) | 30% |
| 1989年 | グリーンウェルと人類学者F・ポワリエ | 50% |
| 2012年 | 周国興(1977年調査隊の共同隊長) | 5% |
いちばん長く現場を見てきた人が、いちばん低い数字を出している。ポワリエ氏も、その後は「キンシコウの見間違いではないか」という考えに傾いた。
第5章 正体をめぐる3つの説
英オープン大学のオリバー・D・スミス氏は2021年の論文で、野人の正体を3つの説に整理した。
説1:未知の動物説
南中国には、かつてギガントピテクスという巨大な類人猿がいた。立てば3メートルほどあったとも言われる。これが山奥で生き残っているのではないか、という説だ。
だが2024年、学術誌『ネイチャー』に載った研究がこの説に厳しい結果を出した。広西チワン族自治区の22の洞窟を、6つの方法による157の年代測定で調べ直したところ、絶滅は29万5000〜21万5000年前とわかった。季節の変化が大きくなって森の植物が変わり、好き嫌いの多い食性に対応できなかったと考えられている。見つかっている化石は、数千本の歯と4つのあごの骨だけだ。21万年以上、化石を1つも残さずに生き延びたと考えるのは難しい。
神農架の森は約3,000平方キロある。東京都の面積の約1.4倍だが、伐採や観光開発が進み、2016年には世界自然遺産にも登録された。人の出入りが多いこの森で、大型の動物の群れが50年間見つからないというのも考えにくい。
説2:既知の動物の見間違い説
いちばん現実的な説である。周氏は「サルやクマは、立ち上がって遠くから見ると人によく似ている」と述べている。目撃者の1人が、のちに「見たのはクマだった」と証言を変えた例もある。1962年に雲南省の野人騒ぎを調べた古人類学者の呉新智氏は、正体をテナガザルと結論づけた。
神農架には、絶滅が心配されているキンシコウ(金絲猴)がすむ。オレンジがかった金色の長い毛を持つサルで、中国でも実物を見たことがある人は少ない。「赤っぽい毛」という目撃談とよく合う。
編集部で、第2章の2007年の目撃を計算してみた。高さ2メートルのものを50メートル先から見ると、見かけの大きさは約2.3度になる。腕を伸ばしたときの親指の幅とほぼ同じだ。そのうえ茂みで一部が隠れていた。これで毛の色や顔つきまで見分けるのは難しい。
説3:「毛深い西洋人」説
スミス氏自身が支持するのがこの説だ。古い文献の野人が「獣」より「人」に近いのは、もともとひげの濃い西方の人々を見た記憶だったからではないか、と考える。
根拠として、スミス氏は次の点を挙げる。
第6章 編集部の考察——3つの説は「層」になっている
編集部の見方では、3つの説はどれか1つを選ぶものではない。時代ごとに積み重なった層として読むと、話がすっきりする。
いちばん下の層は、古典に出てくる「毛の生えた人」だ。これは異国の人々のうわさや、山に住む人々への偏見から生まれたのだろう。スミス氏の説が強いのはこの部分である。ただし、2000年以上前の出会いと1976年の目撃を直接つなぐのは無理がある。
真ん中の層は、地元の伝承と、実際に山にいる動物だ。クマ、キンシコウ、マカクを、暗い森の中や遠くから見れば、昔話の「野人」の型に当てはめて理解するのは自然なことだ。
いちばん上の層は、1970年代の政治と科学である。進化を広く教えたい国家の考えと、目撃した役人たち、そして大規模な調査の話題性が重なった。目撃件数が1984年までの数年で約300件に急増し、その後の34年では100件ほどしか増えていないことも、関心が高まったときに報告が集まったことを示しているように見える。
調査隊が足跡の型を変えてしまったことも見逃せない。証拠を集める仕組みそのものに、「見つけたい」という期待が入り込んでいた。これは野人に限らず、UFOやUAPの調査にも当てはまる教訓だ。
結論——野人は「森」ではなく「記録」の中にいた
神農架の野人は、国家が110人の調査隊で探した、世界でも珍しいUMAだ。その結果わかったのは、毛はクマやサルのもの、足跡の多くはクマの足跡の重なり、そして型の一部は人の手で変わっていたということだった。巨大類人猿が生き残っている可能性も、2024年の研究で一段と小さくなった。
それでも、野人の話が消えないのには理由がある。古典の「毛民」、山の動物、そして20世紀の科学ブームと、何層もの記録が重なって1つの姿をつくってきたからだ。周国興氏は、野人は過去には存在したかもしれないが、今は人々の心の中にしかいないようだ、と語っている。
神農架ではいまも野人の像が観光客を迎えている。森に何がいるかよりも、人が森に何を見たかったのか。野人の記録を読み直すと、その答えのほうがはっきり見えてくる。
関連記事:イエティ——ヒマラヤの雪男、ヒバゴン1970、オラン・ペンデク、パターソン・ギムリン・フィルム、UMA一覧
*参考:O・D・スミス「The Wildman of China: The Search for the Yeren」(Sino-Platonic Papers 309、2021年)、周国興「Fifty Years of Tracking the Chinese Wildman」(The Relict Hominoid Inquiry、2012年)、Y・チャンほか「The demise of the giant ape Gigantopithecus blacki」(Nature、2024年)、S・シュマルツァー『The People's Peking Man』(シカゴ大学出版局、2008年)ほか。目撃の日付や人数など資料で食い違う点は、確認できた範囲で記載した。*